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こじまさんぽの「ストーリー」「下津井」「ものづくり」です

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下津井下津井

  1章:児島下津井、瀬戸大橋のかかるまち

1章:児島下津井、瀬戸大橋のかかるまち
やさこい(ものすごい)とこ、下津井
「私は讃える」谷川俊太郎
私は讃える 橋脚を支えるビットが削った海底の
もう今は目に見えぬなめらかさ
一本のように見えながら 数千本が力をあわせている
重力にたわむ太いケーブルの丸み
一分の隙もなく締め付けられた 数限りないボルトとナット
(『21世紀につづく光芒 瀬戸大橋』より)

新渡戸(hu)(hu)稲(dao)造博(bo)士が「世(shi)界の宝石」と讃えた、瀬(lai)戸(hu)(hu)内(nei)海(hai)(hai)。多島美(mei)の極致、瀬(lai)戸(hu)(hu)内(nei)海(hai)(hai)。そこに架かっているのが、言わずと知れた瀬(lai)戸(hu)(hu)大橋(qiao)である。岡(gang)山後(hou)楽園の配石美(mei)をヒントに設計された6つの橋(qiao)の総称(cheng)がこの美(mei)しい「瀬(lai)戸(hu)(hu)大橋(qiao)」であるが、本土と四国を繋ぐこの橋(qiao)の完(wan)成を契機に、児島の、いや、日本の景色と産(chan)業は大きく変(bian)わることとなった。

児島下津井、瀬戸大橋のかかるまちこの橋(qiao)の本土(tu)側の端を担(dan)っているのが児島(dao)下(xia)津井(jing)地区。山陽道(dao)児島(dao)インターチェンジを降り、鷲羽(yu)山をもう少(shao)しのぼると、巨大な瀬戸(hu)(hu)大橋(qiao)が現れる。離れてみると弦楽器を思わせるしなやかで優美なその容貌も、近くで見ると、さすがは全長1000m、東(dong)京タワー13基分に値する45万3000tもの鋼材が使用されているというだけあって、迫(po)力(li)の金(jin)属美を見せる。特に下(xia)津井(jing)地区には瀬戸(hu)(hu)大橋(qiao)の真(zhen)下(xia)を通る道(dao)があり、ここからの眺めが地元(yuan)民のおすすめ。自動車(che)(che)のみならず電(dian)車(che)(che)まで通す力(li)強さが、漁船と合いまり、どこか親しみやすさを感(gan)じるのだ。

かつては無謀だと言われてきたこの橋の建(jian)設(she)は、哀しい事故がきっかけとなって動きだした。

 

きっかけは紫雲丸沈没事故

児島下津井、瀬戸大橋のかかるまちそこに見(jian)えるのに渡(du)れない。瀬戸内海は波(bo)は穏やかだが、大(da)(da)小(xiao)さまざまな島が潮の流れを複雑に変え、また、風や霧が邪魔をするため小(xiao)さな船(chuan)では渡(du)れなかった。本四を結ぶ橋(qiao)(qiao)(qiao)(qiao)の建設(she)は地元(yuan)住民の誰(shui)(shui)もが夢(meng)(meng)見(jian)ていたが、海を眺めてはその難しさを誰(shui)(shui)もが感じていた。「夢(meng)(meng)の架(jia)け橋(qiao)(qiao)(qiao)(qiao)」の呼び名は、「夢(meng)(meng)を見(jian)とるんか」と言われていたことに由来してつけられたとも言われている。事(shi)(shi)実、この大(da)(da)橋(qiao)(qiao)(qiao)(qiao)の提唱は明治22年(nian)(nian)にあったというのだから、本州(zhou)四国連絡橋(qiao)(qiao)(qiao)(qiao)公団設(she)立までに81年(nian)(nian)、建設(she)に18年(nian)(nian)、実現までに約100年(nian)(nian)の歳月を要したこととなる。前例のない海中工事(shi)(shi)や爆(bao)破(po)による漁業への影響、資金繰りなど、直(zhi)接の問(wen)題はもちろん、第二次(ci)世界大(da)(da)戦や第一次(ci)石油ショックなど世界情(qing)勢も激動(dong)する時(shi)代であった。この「夢(meng)(meng)の橋(qiao)(qiao)(qiao)(qiao)」の必要性を決定づけたものは、痛ましい事(shi)(shi)故(gu)であった。

日本(ben)国有鉄(tie)道の宇(yu)高(gao)連(lian)絡船紫雲丸は、1947(昭和(he)22)年6月(yue)9日の就航から、わずか9年間に5度(du)(du)にわたって事故を起こした。その中(zhong)でも最(zui)大(da)の被害を出した1955(昭和(he)30)年5月(yue)11日の5回目の事故は、168名という犠(xi)牲(sheng)者(zhe)をだす。衝突地点は北緯34度(du)(du)22分(fen)35秒(miao)東経(jing)134度(du)(du)0分(fen)58秒(miao)。瀬(lai)戸(hu)内海女木島沖。修(xiu)学(xue)旅行(xing)で乗り合(he)わせていた、100名をこえる未来ある小中(zhong)学(xue)生が犠(xi)牲(sheng)となった。地元有志による追悼(dao)録「いでたちしまま」によると『現場では次々と児(er)童生徒の遺体が搬出されたが、その様子(zi)はあまりにも凄惨で、搬出活動にあたった者(zhe)の多(duo)くが、長(chang)らくその状況(kuang)を語ることができないほどであった』という。本(ben)州四国連(lian)絡橋の3計画ルートのうち、児(er)島・坂出ルートが最(zui)初に建(jian)設(she)されたことからも、この事故が瀬(lai)戸(hu)大(da)橋建(jian)設(she)の機(ji)運を一気に高(gao)めたことが知れる。

この5度目の事故が社会に与えた影響は特に大きく、国鉄による鉄道連絡船の安全基準が大幅に見直され、海上保安部による停船勧告基準も厳格化された。また全国の小中学校へのプールの設置と体育の授業における水泳の普及も進められるようになった。
安全性では、紀伊半島沖や土佐沖で100年に1、2度発生が予測されているマグニチュード8程度の大地震、また、150年に1度発生が予測されている秒速65メートルの台風にも耐えられる設計だ。二度と痛ましい事故が起こらないよう、母なる海に架かる母なる橋が見守っている。

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